●現在の杉五小のすがたへ
天沼の人々の願いがかない、昭和32年に新しい校舎の計画が立てられました。
そして、昭和33年に最初の鉄筋三階建ての校舎ができました。
三階建ての校舎の屋上からは富士山がとてもよく見えることを、子どもたちは初めて経験しました。 当時、杉並区内で、鉄筋の校舎を持つ学校はいくつもなく、また、モデル建築第一号としてベランダがつけられましたが、これも区内の学校では珍しいことでした。
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晴れた日には今も美しい富士山が望める
昭和37年10月の杉五小
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昭和40年には、創立40周年記念を迎えました。 そのときには、校歌が新しくなり、杉並公会堂で記念音楽会が行われました。
昭和41年には、体育館ができ、その記念に東京オリンピック(昭和39年)で金メダルを取った選手が来て、模範演技を見せてくれました。
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重量挙げ 金メダリスト 三宅選手の模範演技
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その後、次々に校舎が増築され、昭和46年に南校舎ができて、今の杉五小になりました。 南校舎の屋上には、プールも作られました。
新しい校舎が増築されていくにつれ、ただでさえ敷地の狭い杉五小の校庭は、ますます運動をする場が少なくなってきました。そこで、子どもたちの体力づくりに何か良い方法はないかと考えられ、「毎朝の5分間マラソン」を行うことになりました。
初めは、「かぜをひいた」などの苦情もありましたが、分区運動会でも持久走の成績がとても向上し、後には「かぜをひかなくなった」と、親からも喜ばれるようになりました。 これは後に、テレビ局からも取材があり、「北風なんかに負けない、裸のマラソン」として、朝のニュースにも取り上げられました。
現在でも、裸にはならないものの、「健康タイム」として学年別に時間を区切って、朝マラソンが続けられています。 朝の空気を吸って走ることで、頭もすっきりし、勉強への集中が増すという効果が得られています。また、杉五小の児童は、脳貧血で倒れる子どもが少ないことも、その効果だと言われています。
町にも、新しい家もどんどん建てられ、畑や空き地はほとんど見られなくなりました。 道路は舗装が進み、下水道がその下を流れるようになりました。
昭和44年には、天沼の中央に流れていた桃園川に蓋がされ、街路樹などが植えられて遊歩道になりました。
古い家が壊されると、そのあとには団地・社宅やアパートが建てられるようになりました。
さらに、マンションなどの建設もされるようになり、裏通りの様子も変わってきました。
戦後から荻窪駅前にあった「新興マーケット」の跡地に、駅ビル(西友ストア・タウンセブン・荻窪ルミネ)が建設され、大きなビルが建ち並ぶにぎやかな街へと変わっていきました。
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昭和40年代に行われていた、朝の5分間マラソン 夏も冬も、男子は上半身裸、女子は半そで体操着で5分間の マラソンをしていた。
桃園川にふたがされ、遊歩道になっている箇所
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●おめでとう 80周年 そして、新しい学校へ
杉五小は、平成18年(2006年)に80回目の誕生日を迎えました。
80年の間には、子どもの数が増えて、杉九小・若杉小・沓掛小ができ、子どもたちが分かれていきました。1クラス60名近くいたときもあります。
しかし、今ではすっかり子どもの数が減り、杉五小に通う子どもも年々、減ってきています。
杉五小から分かれていった若杉小では、全学年1クラスという、とても人数の少ない学校になってしまいました。
そこで、平成20年、もう古くなってしまった杉五小の校舎を建て直す時期にあわせ、昔、分けてしまった二つの学校を、もう一度、ひとつにして新しい学校にしようということになりました。
杉並第五小学校という名前・校舎はなくなってしまいますが、今まで多くの方に作りあげられてきた伝統や思い出は、いつまでも消えることはないでしょう。
そして生まれてくる新しい学校を、みなさんの手で杉五小に負けないくらいのよりよい学校にしていきましょう。
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若杉小学校との交流遠足
今年度は、このほかにも合同移動教室など、 さまざまな合同学習が行われている
運動会で、力を合わせくみ上げるピラミッド
今度は力を合わせて、新しい学校を作り上げましょう
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