杉五小のうつりかわり

杉並第五小学校は、今年で開校81周年を迎えました。
学校創設当時からいままでの「うつりかわり」を写真とともに綴ります。


●杉五小の誕生

 大正6年、天沼にはじめて学校が
できました。
蓮華寺のひと部屋をかりたこの学校が、
杉五小のはじめです。








  
                                        蓮華寺分教場の子どもたち

















                                  連華寺分教場 ここから杉五小がはじまった

 7年後の大正13年には、今の場所に校舎ができ、大正15年4月杉並第五尋常小学校が開校しました。
生徒の数は1年生から6年生まで311名でした。

●杉五小のまわり

杉五小が開校したころの天沼は、田や畑ばかりで、自然もたくさんあり、夏にはホタルがとぶほど、川の水はきれいでした。お店は3軒しかありませんでしたが、杉五小ができて、文房具店と薬屋ができました。

中央線も木でできた三両だけの電車が走り、ドアも手で開けたり閉めたりしました。

年がたつにつれて、天沼の人口は次第に増え、杉五小に通う子どもの数も増えていきました 教室が足りなくなり、午前中に勉強する組と午後に勉強する組に分かれ、二部授業を行いました。


それでも子どもの数はどんどん増えたので、昭和8年に校舎をすべて2階建てに直しました。 

その後も子どもが増え続け、昭和10年に杉並第九小学校が、昭和16年に若杉小学校ができ、子どもたちはそれぞれの学校に移りました。





昭和6年ごろの杉五小

●昔から スポーツが盛んな

杉五小



杉五小でまず盛んになったものに、野球があります。昭和2年に杉並小学校野球大会で優勝し、昭和4年には全国大会で準優勝をしました。
野球はその後もますます盛んになりました。


また、昭和12年ごろには、じょうぶな体をつくるため、陸上競技も盛んになり、リレーチームは杉並や東京の大会で何度も優勝しました。

学習にも力を入れていて、昭和10年ごろには進学校として、全国でも有名な学校となりました。



東京少年野球大会で優勝した杉五チーム 昭和4年




地区対抗リレー優勝記念 昭和13年

●戦争中の杉五小

昭和16年太平洋戦争が始まりました。

戦争が進むにつれて、着るものや食べものが少なくなり、人々のくらしは苦しくなってきました。
杉五小でも、下駄や草履をはいて登校する子が増えました。
また、昭和19年4月から学校給食が始まり、梅ぼしに味噌汁だけのときもありましたが、ごはんが食べられるのを楽しみにして学校に行きました。

先生も子どもたちも男は丸刈りの頭で、動作もだんだん軍隊調になっていきました。そして、子どもたちも、当時の日本陸軍の小銃と同じ長さである1メートル27センチの竹の棒を持たされ、野外戦闘訓練を行うようになりました。





















校庭には、奉安殿という建物が建てられ、その中に当時「ご真影」と呼ばれた天皇皇后両陛下の写真と教育勅語が納められました。子どもたちはこの前を通るときには、深々と礼をしていくのが決まりでした。

戦争がはげしくなると、東京にも爆弾が落とされようになりました。


竹を銃にみたて、野外戦闘訓練をする子どもたち



野外戦闘訓練 校庭にて白兵戦(昭和17年)



奉安殿 献木記念の際の写真 昭和10年

●学童疎開

東京の子どもたちは空襲をさけるため、学校ごとに地方へ移りました。これを「集団学童疎開」といいます。

杉五小でも3年生から6年生までの450名ほどが、昭和19年8月、長野県別所温泉へ疎開しました。 

午前中は旅館や地元の学校で勉強し、午後は畑仕事をしました。
食事は給食でしたが、量はどんどん少なくなっていきました。


学童疎開は、子どもたちにとっては、とても切ないものでした。
はじめのうちは、周囲の珍しさに目を見張って喜んでいた子どもたちでしたが、だんだんとその表情はくもっていきました。栄養障害・皮膚病・シラミの発生・精神的な不安などが原因です。外で遊べと言われても、陽だまりの石や草に腰を下ろして、川の流れをじっと見ている子、入浴をきらって逃げようとする子、食事の1時間前から箸を持って、食堂の前でしょんぼりする子も居ました。


学童疎開は、戦争が終わる昭和20年11月まで続きました。


疎開先の学寮前で乾布摩擦をする子どもたち
やせて、あばら骨の見える子どもたちが痛々しい




お寺の広場で長刀の訓練

●戦後の杉五小

昭和20年8月15日、長く苦しい戦争が終わりました。
この戦争によって東京の町は、大部分がこわされてしまいました。
食べるものも少なく、住む家のない人々がほとんどでした。
庭や道にも畑を作ったり、着物などを、米・イモ・野菜とかえたりして、飢えをしのぎました。

平和がよみがえり、やがて、被害をそれほど受けなかった天沼に、多くの人が移ってきました。
学校は授業を始めましましたが、おなかがすいて欠席する子が多く、しばらくの間はふつうの学習活動ができませんでした。 
戦争前に建てられた木造校舎は傷み、ひどく危険になりました。 




昭和21年の朝礼風景

●現在の杉五小のすがたへ

天沼の人々の願いがかない、昭和32年に新しい校舎の計画が立てられました。

そして、昭和33年に最初の鉄筋三階建ての校舎ができました。

三階建ての校舎の屋上からは富士山がとてもよく見えることを、子どもたちは初めて経験しました。
当時、杉並区内で、鉄筋の校舎を持つ学校はいくつもなく、また、モデル建築第一号としてベランダがつけられましたが、これも区内の学校では珍しいことでした。

























晴れた日には今も美しい富士山が望める



昭和37年10月の杉五小

昭和40年には、創立40周年記念を迎えました。
そのときには、校歌が新しくなり、杉並公会堂で記念音楽会が行われました。

昭和41年には、体育館ができ、その記念に東京オリンピック(昭和39年)で金メダルを取った選手が来て、模範演技を見せてくれました。














重量挙げ 金メダリスト 三宅選手の模範演技

その後、次々に校舎が増築され、昭和46年に南校舎ができて、今の杉五小になりました。 
南校舎の屋上には、プールも作られました。

新しい校舎が増築されていくにつれ、ただでさえ敷地の狭い杉五小の校庭は、ますます運動をする場が少なくなってきました。そこで、子どもたちの体力づくりに何か良い方法はないかと考えられ、「毎朝の5分間マラソン」を行うことになりました。

初めは、「かぜをひいた」などの苦情もありましたが、分区運動会でも持久走の成績がとても向上し、後には「かぜをひかなくなった」と、親からも喜ばれるようになりました。
これは後に、テレビ局からも取材があり、「北風なんかに負けない、裸のマラソン」として、朝のニュースにも取り上げられました。


現在でも、裸にはならないものの、「健康タイム」として学年別に時間を区切って、朝マラソンが続けられています。
朝の空気を吸って走ることで、頭もすっきりし、勉強への集中が増すという効果が得られています。また、杉五小の児童は、脳貧血で倒れる子どもが少ないことも、その効果だと言われて
います。




町にも、新しい家もどんどん建てられ、畑や空き地はほとんど見られなくなりました。
道路は舗装が進み、下水道がその下を流れるようになりました。


昭和44年には、天沼の中央に流れていた桃園川に蓋がされ、街路樹などが植えられて遊歩道になりました。
古い家が壊されると、そのあとには団地・社宅やアパートが建てられるようになりました。


さらに、マンションなどの建設もされるようになり、裏通りの様子も変わってきました。

戦後から荻窪駅前にあった「新興マーケット」の跡地に、駅ビル(西友ストア・タウンセブン・荻窪ルミネ)が建設され、大きなビルが建ち並ぶにぎやかな街へと変わっていきました。





昭和40年代に行われていた、朝の5分間マラソン
夏も冬も、男子は上半身裸、女子は半そで体操着で5分間の
マラソンをしていた。










桃園川にふたがされ、遊歩道になっている箇所


●おめでとう 80周年
   そして、新しい学校へ



杉五小は、平成18年(2006年)に80回目の誕生日を迎えました。

80年の間には、子どもの数が増えて、杉九小・若杉小・沓掛小ができ、子どもたちが分かれていきました。1クラス60名近くいたときもあります。
しかし、今ではすっかり子どもの数が減り、杉五小に通
う子どもも年々、減ってきています。

杉五小から分かれていった若杉小では、全学年1クラスという、とても人数の少ない学校になってしまいました。
そこで、平成20年、もう古くなってしまった杉五小の校舎を建て直す時期にあわせ、昔、分けてしまった二つの学校を、もう一度、ひとつにして新しい学校にしようということになりました。

杉並第五小学校という名前・校舎はなくなってしまいますが、今まで多くの方に作りあげられてきた伝統や思い出は、いつまでも消えることはないでしょう。

そして生まれてくる新しい学校を、みなさんの手で杉五小に負けないくらいのよりよい学校にしていきましょう。





















若杉小学校との交流遠足
今年度は、このほかにも合同移動教室など、
さまざまな合同学習が行われている





運動会で、力を合わせくみ上げるピラミッド
今度は力を合わせて、新しい学校を作り上げましょう