学校が生まれたころ

 

○荻窪小学校の誕生

昭和20年(1945)に戦争が終わると、外国にいた兵隊の人たちも、次々に、日本に帰って来はじめました。また、遠い町や村に疎開していた子どもたちや人々も、東京にたくさん帰って来ました。それにつれて、杉並区にも住宅がどんどんふえて子どももふえてきました。杉並区は、緑の空き地が多く、交通も便利で住みやすかったからです。
昭和25年(1950)、おとなりの学校、桃井第二小学校の児童数は1800人以上にふえました。ですから桃井第二小学校では、教室が足りなくなりました。そこで桃井第二小学校では、一つの教室を午前中に1回使うクラスと午後に1回使うクラスができました。このような授業の仕方を「2部授業」といいます。近くの高井戸第四小学校、桃井第三小学校も同じように、児童の数がとてもふえました。
そこで、杉並区は相談して、「荻窪小学校」を新しくつくることに決めました。場所は、古い住所で「杉並区荻窪2丁目156番地」になりました。ここは、当時、キャベツやサツマイモなどが作られていた「畑」でした。また、武蔵野の雑木林を思わせる風景もありました。
昭和25年(1950)11月に、木造校舎を建て始めました。敷地は6200平方メートルという広さで、学校としては、少しせまいという意見もありました。
次の年の昭和26年(1951)1月8日に荻窪小学校は開校されました。しかし、工事のおくれで、荻窪小学校の校舎は、まだ、できあがっていませんでした。そこで、当時、桃井第二小学校と桃井第三小学校と高井戸第四小学校からわかれて、荻窪小学校に入学する予定だった児童は、それぞれ元の学校で「荻窪小学校の児童」として、今までどおりの勉強をしていました。校舎ができあがるのを、子どもたちは、まっていたのです。できあがるのを楽しみにしていた児童の数は、700名をこえていました。

下写真(建築中の校舎の前での入学式)

下写真(第1回 卒業生授業風景)

 

○校舎が完成!

昭和26年(1951)4月5日、はじめての1年生152名も、荻窪小学校に入学してきました。大根の花さく校庭で、入学式をしました。その1年生は、まだ完成していない校舎と校庭で、次の日から勉強を始めたのです。椅子だけの「青空教室」で勉強をし、雨の日、学校はお休みです。2年生から5年生までは「荻小だけのクラス」を作り、桃井第二小へ213名、桃井第三小へ102名、高井戸第四小へ297名と、べつべつの学校に分かれて、勉強をしました。5月になると、陽ざしも強くなり、とても青空の下での勉強は、できなくなりました。そこでついに、1年生152名も「荻小だけのクラス」を作り、桃井第二小と高井戸第四小に分かれて、通うことになりました。荻窪小学校は、形の上ではできているのに、校舎ができていないのです。そこで、先生たちや保護者、子どもたちみんなが、とても心配していました。毎日のように、子どもたちが、学校の工事現場へ校舎のようすを、見に行ったそうです。
『おじさん、わたしたちの学校、早く作ってくださあい。』
『ぼくたちにできることがあったら、手つだってあげるよ。』
そういって、工事をしているおじさんたちを、はげましていたそうです。
 昭和26年(1951)7月17日ついに、待ちに待った校舎が完成しました。赤い屋根の立派な2階建の木造校舎です。764名の児童と先生24名が、やっとそろって、勉強を始めることができました。「荻窪小学校が開校」して、6ヵ月と10日後のことでした。机や椅子を、桃井第二小学校の5・6年生全員に手つだってもらって、新しくできた荻窪小学校まで、みんなで運びました。自分たちの手で、校庭の土のデコボコを直しました。そして、家からもちよった「木」を、校舎のまわりに植えました。「新しい学校作り」に、みんなで協力して、はげんだそうです。今、春になると、見ごとな花をさかせる大宮前体育館のバス停のところの「さくらの木」も50年前に、こうして、苦労して植えられたものなのです。

下写真(木造校舎の全景)