○木造校舎から鉄筋校舎へ
荻小の校歌の三番に「きぼうの日ざし てりはえる 赤いかわらよ 緑のまどよ」とあります。学校が建てられたときの校舎の様子です。どんな感じだったか想像してみてください。赤いかわら、緑のわくのガラス窓の木造校舎は、創立当時(昭和20年頃)は目新しい建て方でした。
けれども十数年たつと痛んできました。雨がふるとあちこちの天井が雨もりして「ぞうきんだ。バケツだ。」と大さわぎになりました。 それに、体育館がないので、雨の日の体育は中止。学芸会や卒業式は、神明中学校や宮前中学校の体育館を借りて行っていました。プールもなかったので、高学年は桃二小、低学年は高四小まで行って使わせてもらっていました。そのため少ししか泳げませんでした。
そのようなわけで、鉄筋の新校舎、体育館、プールの建設は、みんなの願いとなり、昭和40年(1965)9月に校舎改築が認められました。そして鉄筋校舎を建てる工事が始められました。子どもたちが勉強しながらの工事ですから、こまることがたくさん起きました。校庭のまん中に、仮の教室のプレハブ校舎が建てられたため、外では遊べなくなりました。もちろん、体育も十分できません。休み時間は、ゲームなどをして教室で遊ばなければならない日が続きました。授業中、工事の音がうるさくて、先生の声が聞こえないこともありました。でも、朝早くから夜遅くまで、汗を流して働く、工事のおじさんに感謝しながら、新しい校舎を楽しみにがまんしたのです。
昭和41年(1966)には、プールが完成しました。46年(1971)には、体育館が完成しました。50年(1975)には、3期にわたった新校舎が全部できあがりました。4階に視聴覚室も完備され、校庭にはスプリンクラーが取りつけられ、みんな。大喜びしました。
鉄筋校舎を建てていたころの荻窪小学校学区域のようすは、どんなだったのでしょう。全体の感じは、今とあまり変わらなかったそうです。でも、ところどころに緑が残っていました。
上の地図は、昭和46年学区域地図の一部です。宮前二丁目あたりが今とずいぶんちがうことがわかると思います。学区域の南はしを通っている五日市街道沿いは、環状八号線まで昔のなごりの大きなケヤキの木が立っていました。環状八号線の一部が点線になっています。まだ完成していなかったのですね。
今の荻小のあたりは、森や畑でした。昭和50年(1975)ごろからぽつぽつと畑の宅地化が始まり、転入してくる友だちがいました。 神明通りを高井戸第四小学校の方へ行くと、原っぱがありました。その当時の子どもたちは、「あの原っぱに集まれよ。」と約束しあってよく遊びました。思い出がいっぱいつまった原っぱだったようです。
○荻窪小学校とともに成長した「いちょうの木」
創立当時、いちょうの木が木造校舎の前に植えられました。校舎の改築などがあったためか、本数は減りましたが、旧校舎の前に4本残っていました。木造校舎の頃には、まだ2階ぐらいの高さでしたが、ぐんぐん育ち、鉄筋の旧校舎よりも高くなりました。移転して、校舎は壊されましたが、今でも大宮前体育館には、4本のいちょうの木は残っています。そして、新校舎にも、いちょうの種を植えました。荻窪小学校の歩みを今でも静かに見守り続けているのです。
下写真(昭和38年(1963年))
下写真(昭和42年(1967年))
下写真(昭和55年(1980年))
下写真(平成13年(2001年))
○待たれる学校の移転
旧鉄筋校舎は、杉並区の小学校の中でも2番目にせまい敷地に建っていました。開校の頃から『児童数が多いのに校庭がせまくてかわいそうだ』と言う大人がたくさんいました。 そこで、平成7年(1995年)と平成17年(2005年)の2度に分けて現在の土地を杉並区が買いました。こうして、荻窪小学校の新校舎の土地が用意されたわけです。 新校舎が建つまでの間、平成8年からは第二校庭として使っていました。生活科や理科で植物や虫の観察をしたり、畑で野菜を作ったり、体育の授業をしたりしていました。
下写真(現在のさくら門のあるところ)下写真(1階 コンクリート枠 組み立て工事)
下写真(外壁仕上げ 完了状態)